2015年5月18日月曜日

頂いた薔薇の花 

アンジェラ(天使。小振りの濃いピンク)
ピエール・ド・ロンサール(ルネサンス期のフランスの詩人。ピンクのグラデーション)
ブラックティー(ダージリン、アッサム、セイロン、ルワンダ、ケニア、タンザニア等を産地とする紅茶で、フレーバーティーでないもの。ストレートティーの意ではない。煉瓦色)
バーガンディー・アイスバーグ(ブルゴーニュ産ワインのようなワインレッドの氷山。ワインレッド)
フレンチレース(わずかに桃色がかかった象牙色) 
 

2015年5月14日木曜日

好き嫌いとアレルギー~皮膚感覚についてⅢ




 子どもの時から食べ物の好き嫌いが多くて、給食ではずいぶん苦労した。聞くところによると、掃除中のほこりの舞い上がる中、残した給食を全部食べるように席にとどめ置かれたり、吐き戻しを口にねじ込まれたりと、「それはホラー映画か、都市伝説だよね。現実じゃないよね」と言いたいようなことが、起こっているらしかった。昔の話と思いたい。
 私は小学校12年のときに給食を「食べなさい」「頑張りなさい」と指導されただけで、特に強制や虐待にあたることはされていない。でも「みんなの前で、一口でいいから食べてみて」「(細心の注意を払って、自分ができる最小のおちょぼ口に入れて、噛まずにそのまま)ごっくん(涙目)」「頑張りました~、みなさん拍手」とほめられる(?)のはひどくつらかったし、却って嫌いなものが増えたと思う。
どんなにお勉強を頑張って、お友達に親切にしたところで、自分のように給食を残す者は、決して「よい子」にはなれないと思って、悲しかった。よい子になりたかった。先生の御おぼえをめでたくするためではない。植物に「正の走光性」があるように、「神さまの前での善き人間」になりたかった。小学校低学年の子どもは皆、そうではないだろうか。
 3年生以降は指導もなく、放っておいてもらえたので助かったが、中3までのお昼ご飯は、嫌いなものばかりが出て、飲み込めたのはパンだけという日も結構あった。「出されたものを残す」というのは、「食べ物を粗末にした」という罰当たりなことでもあった。
 給食を卒業してしばらく後、給食の蕎麦を食べて亡くなった子がいたと知る。その子、お蕎麦が大好物だったのだといいな。「あんまり好きじゃないけど、残すなと言われて、頑張った」なんてことはありませんようにと願った。
 仕事でヨガのお産の本を作ったとき、著者の先生が「好き嫌いという形で、本能的に自分のアレルゲンとなる食べものを避けている場合もある」とおっしゃった。それまで「食べ物の好き嫌い=わがまま」として、後ろめたさに縮こまるばかりだったところに、「反省一辺倒でなくともよい」という光が、うっすらさしこんだ気分だった。
 父が喘息、私が小児ぜんそくをやり、かぶれやすく花粉症もあるので、子どもにアレルギー体質を引き継がせないためにどうすればいいかと、いろんな本を読んだ。私の得た結論は、以下である。離乳食は「穀物」「野菜」「白身の魚」の順に、少しずつ様子を見ながら、時間をかけて慣らしていく。栄養が豊かで便利という理由で、最初から使われることの多い牛乳や卵は、ほとんど一番最後にしましょう…。そうだったのか!
 近年、子どもの食物アレルギーが激増して、学校が家庭に、除去すべき食物を尋ねる方向に変わった。そのいきさつを見ても、「アレルギーがあるから、好き嫌いを言って、自分の体を守っている」という考え方を支持したい気分だ。
 三味線の漆に始まるかぶれとの付き合いの中で、痛痒い、不愉快、醜いことに耐える辛さから、皮膚に関してあまりいい印象を持っていなかった。ところが子どもたちが小さいころ、夫が「体の中で一番大事なのは?」と尋ねたとき、末っ子が「皮膚」。その理由は「人と自分を分けるから」と言ったときには驚いた。その後、「皮膚は体の中で最大の臓器」という考えを知り、子育て本としてシャスティン・ウヴネース・モベリ『オキシトシン―私たちのからだがつくる安らぎの物質』(晶文社)など、一連の皮膚の本を読むようになった。

2015年5月11日月曜日

母子分離はどう進むか~皮膚感覚についてⅡ



 自分のことはわからない。人のことだとよくわかる。母子分離についてもそうだった。
 公民館主催の乳幼児学級の講師を、何度かしたことがある。これは、乳呑児とお母さんを集めて、ペアを作る。AさんとBさんは、隔週で互いに子どもを預け合って勉強する。Aさんの受講中はBさんが自分の子どもとAさんの子どもを見る。翌週は反対。講師は2週にわたって、全体の半分ずつのお母さんたちに、同じ話をする。
 たぶん、お子さんと離れるのはこれが初めて、という方が多かったと思う。そこに来ていたのはあかちゃんばかりだったのだから。
 私の講演は、いつも「お隣同士の自己紹介」で始める。自分が聴講する際、これから何を聞かされるのかなと構えているときに、ちょっと自分で声を出してみると、緊張がほぐれるからだ。当時は「名前、誕生日、好きな色、好きな物音、好きな匂い、好きな味、好きな手触り」で尋ねていた(今はセキュリティの関係上、誕生日を聞くのはやめている)。
 すると、どのクラスでも判で押したように「誕生日って、子どもの誕生日ですよね?」と、聞かれた。当時の私は既に3人の子持ちで、子どもの誕生日は3つもあったから、尋ねられて答える誕生日は、自分の誕生日以外、考えていなかった。
 しかしほんの数か月前に、人生でただ一度の「初産」を経験したばかりのお母さんたちにとって、誕生日と言えば、子どもの誕生日が筆頭である。自分の誕生日?お花?ケーキ?プレゼント?そんなもの、ちゃんちゃらおかしくて、語るまでもない、というところだったのだろう。
 私にもそういう1年間は、確かにあったはずだ。しかし、すっかり忘れていた。面白いなあと思った。まだ自分とあかんぼの境目というものがはっきりしていなかった時間だったなと思い出す。そのなかにどっぷりとつかっていられる受講生のお母さんたちのお幸せを、祝福したい気持ちだった。
 私の「その時期」にも、地域の乳幼児学級があった。しかも、大学時代の恩師、津守眞(つもりまこと)先生の奥様であり、私どもの大先輩でもある津守房江先生が、つくばにいらしてくださるというではないか! 房江先生のご本は育児書として愛読していて、すでにボロボロ。ぜひとも先生のお声を聞きたかった。でも90分×5回、子どもと離れるのは耐え難い。「房江先生の回だけ伺うことはできませんか。もちろん、翌週、他のお子さんをお預かりします」と交渉してみたが、全回参加できる方だけを募集しているので無理のことだった。
 そんないきさつがあって「初産後1年以内の母親にとっての筆頭誕生日」に気づくのが遅れたが、その時期はきっと私も同じ質問をしたに違いない。
 さて、上の子二人は「自主保育」に通っていた。活動場所は主に市内の公園や川などの屋外で、時々親も保育参加する。そこで3歳ぐらいの坊やがトカゲを捕まえて、うれしそうに掲げて、周りの子どもに見せていた。それを見たお母さん(私のすぐそばにいらして、坊ちゃんとはちょっと遠く)が、その場で、大きな声で「捨てなさーい。今すぐ捨てなさーい。手を放しなさーい。早くー」と叫び始めた。
 ちょうどそのころ、「カエルの中には毒を持つものがあるので、触った後は必ず手を洗うこと。特に、カエルを触った手で、目をこすらないこと」という記事を、新聞で読んだ。そうなんだ。「カエル注意」ね。了解。でも「トカゲ注意」の話は聞いたことがなかったので、「トカゲにも毒があるんですか?」と、聞いてみた。
「わかりません」と私に。「早く捨てなさーい」と坊っちゃんに。忙しそうな彼女の様子を見ながら考えた。もし息子の触っているものが本当に有毒なら、こんなところで口だけで注意していないで、すぐに子どものところに行き、わしづかみにしてやめさせ、手を洗わせるだろう。だから多分、大丈夫だ。
 「どうしてトカゲを捨てないとだめですか?」と尋ねてみると、「だって、気持ち悪いじゃない!」と、悲鳴のような答えが返ってきた。
 私は感動してしまった。このお母さんの皮膚は、まだ子どもの皮膚と1枚につながっている。子どもは自分、自分は子ども。子どもがとかげに触ったら、自分が気持ち悪くて飛び上がる。まだそんな時間の中におられるのだ。うらやましいなあ。私には取り戻せない感覚だ。
 自分がもう持っていないものを、他の方が持っておられることに気づいて初めて、自分の母子分離の初期の2段階が、完全に過去形と知ったのだった。

2015年5月10日日曜日

蛾が怖い~皮膚感覚についてⅠ



 バッタなら、今でも手でつかまえることができる。草の中を歩いてバッタをピョンピョン跳ばせて、ひょいっとつかむの、楽しいよね。ほっそりしたハナグモを、下からすくい上げて、ちょっと眺めて離すのも楽しい。トンボもこちらの敏捷性が追い付けばマル。カエルをさわるのは今ではちょっといやだな。アマガエルならいいけれど。子どもの時はトノサマガエルもトカゲも、青虫も、モンシロチョウもアゲハチョウもセミも、平気で手で捕まえていた。
一番好きなのは、壁に張り付いて、泥をかぶって保護色になっているツチグモの巣を探すことだった。見つかると、ドキドキと嬉しい。はかなく弱いぼろ布でできたようなその巣の上端を、慎重に壁からはずす。巣に破れ目が入ったら、すぐ逃げてしまうから、気づかれないようにせねばならない。それから、地面に埋まった部分を、そうっと引き出す。これはかなり難しい。途中でちぎれたら、それでおしまい。袋状になった全体を引き出すことができると、ものすごくうれしかった。手のひらの上で袋を破ると、小さなツチグモが手足を縮めている。軽く触ってから逃がす。
最初の子が生まれたばかりの時、彼女の足の小指を触った妹が「ツチグモのお尻みたい」と言ったのが、最上の褒め言葉に思えた。可愛い、いとしいものを表すのに、こんなにぴったりの表現はないのだから。
 クモがせっかく作った巣を壊して、かわいそうじゃないのー!ということは、ただの一度も思い及ばなかった。ゴメンね。ただもうこの遊びが楽しくて、泥色の壁ぎわを、かがんでぐるっと探して歩いた。
 大きくなるにつれてその遊びも忘れ、でも巣がありそうなところに行くと、目で探すことは続けていたらしい。東京に住むようになったら、ツチグモが居そうな場所そのものがないのに気づいて、帰省すると積極的に探すようになった。おじいちゃんの家の壁からは、ツチグモの巣がだいぶ減っていたが、神社の石碑が立っている石積みのところには、まだまだたくさんあった。昔取った杵柄をもういちど。張り切ってツチグモとりを試みるが、成功率0%。あんまり下手なので驚いた。子どもの時は何も考えずに、ものすごく器用に力加減をしていたのだと気が付いた。もうだめなのだろうか。その後何度か試みるが、一度も成功しない。悲しい。
 小学校低学年の時、図鑑を見ていたら、「蛾の中には毒を持つものがある」と書いてあって、とたんに蛾が怖くなった。追わなくても、自分からひらーと逃げる蝶はユルス。追ってもばたばたそこにとどまって、逃げようともない蛾には、もう絶対に絶対に近づかない。そう決めた。
するとどんな小さな蛾も、全部全部怖くなった。だいたい「蛾」という字も怖い。「ガ」いう音も怖い。「鱗粉」という字は蝶でも怖い。一見地味なのに、よく見ると凝った模様のある蛾の羽は、相当に怖い。人の顔のような模様があるなど、言語道断。図鑑の蛾のページは、ゼムクリップで数か所丁寧に閉じて、以後うっかり見えないように努めた。
妹に「おねえちゃん、目つむって。手、ここに置いて。目開けて」と言われて、自分の手が蛾の写真に触っていると知ると、ギャーギャー泣いて怒った。夜、網戸を閉める前に電気をつけるとワーワー怒って電気を消してから窓を閉めた。
 「蛾が怖い」は、ずいぶん長く続いた。心底本気で怖かった。高校の時に読んだ『リンバロストの乙女』という少女小説に、美しい蛾が出てくるのを、チリチリと嫌な鳥肌が立つ思いで、我慢して耐えた。お話の先に進みたい気持ちが、辛うじて勝っていただけで、もうちょっとつまらない話だったら、やめていた。
お産して数年経ったある日、蛾が昔のように怖くなくなっているのに気付いた。蛾への徹底的な忌避は、多分、女神のダイアナが、自分の裸体をうっかり見てしまった猟師を、殺さずにいられなかった心情に通じるところがあったのだろうと振り返る。つまり、少女にはつらいことも、オバサンになれば平気なのである。
 その後、椿の枝を整理していたら、チャドクガにやられてそいつを本気で嫌いになったのは、また別の話である。