2015年4月29日水曜日

おばあちゃん~夫居ながらにして後家のがんばり


 おじいちゃんの最初の妻が病死した後、遺された小さな子ども2人の養育係兼新しい妻として、とにかく誰かをあてがわねばならないということになった。若死にするような者を輩出した一族の責任を取るような形で、白羽の矢を立てられたのが、前妻の妹であるおばあちゃんだった。数え14歳の若さで結婚したのは、ロミオとジュリエットのジュリエットと同じだ。その後すぐ妊娠、出産、そして翌日子どもを失った。次の子どもは、幼児期に疫痢で失った。どちらも「あぶくのように死んだ」そうだ。その後、4人の子どもを育てた。母は下から2番目である。
 下級士族の家から来て、最初は地主の奥様だったが、農地解放後は貧乏との戦いだった。幸い、おばあちゃんは針が持てた。しかし当時は誰もが浴衣ぐらいは縫えたから、ご近所の季節の仕立物や、呉服屋さんの雇われ和裁師で暮らしを立てるのは、無理だったと思う。家から1キロあまり離れた隣部落の、遊郭の仕立てもので、何とか糊口をしのいだ。
 おじいちゃんが大変な潔癖症だったのは、自分さえ働けば、こういった形で、遊郭に間接的に養われるようなかかわりを持たずに済んだのに、挫折感やプライドが邪魔をして働けない自分を変えることもできないという、複雑さをもてあましていたからだと思っている。
 でもおばあちゃんとその子どもたちが、そのような批判眼を持つことは、なかったと思う。少なくとも母にとってのおじいちゃんは、若草物語のジョーのお父さんのように、インガルス一家のローラのお父さんのように、立派で素敵な人だった。祖父が亡くなった時の母の嘆きは、「あれだけの知恵を持った脳味噌が、墓石の下に入ってしまった。もっといろいろ教わっておくんだった」であった。
 穏やかで優しい祖父母だった。親と離れて祖父母の家に下宿しながら幼稚園に通っていたときの私は、おばあちゃんにくっついて歩いた。当時、ささやかな現金収入のために、鶏を飼っていた。ひよこ小屋を卒業した親鶏は、1メートルぐらいの高さに2列に吊るしたケージに入っていた。
 人間用の通路分離れて向かい合わせになっている。通路はたかだか78メートルではなかったか。鶏糞が向こう側のコンクリートの上に落ちる。それをお百姓さんたちが買いにくる。畑の肥料にするのだ。卵はこちら側の餌台の手前に転がってくる。リンゴ箱のおがくずの中に埋めておくと、近所の人たちが買いにくる。
 ボウルを片手に卵を集めて歩くおばあちゃんの、お前掛けの端をしっかりつかんで、私はついていく。鶏たちがすごく怒って鳴いて怖いからだ。それでもついていきたい。
 自分の目の高さが、ちょうど鶏たちの足ぐらい。卵を横取りされるのは、あたりまえだけど、鶏たちにとって実に腹立たしいことらしくて、「とるなとるなとるな、とるなといったら、と・る・なあーーーーっと、いっとるだろがーーーーーっ、このーーーーっ」とばかりの大合唱になる。足を蹴立てて怒っている。
 金網の向こうの出来事と分かっていながら、やっぱり今にもつかみかかられそうで怖い。一人では絶対通れない通路だ。だからこそ、おばあちゃんが通るときには、絶対についていきたいのだった。
 分厚くて丈夫な紙でできた、農協で買う飼料袋の餌だけでは足らなくて、ときどき青菜を刻んで与えていた。畑で特別に作っていた菜っぱで、刻むときには小松菜のような匂いが立った。おままごとの匂いだと思った。飼料は黄色っぽくて、ちょっと香ばしいいい匂いがした。鶏糞はもちろん臭いけれど、いろんな匂いと混ざり合って、なんとなく懐かしく慕わしく思い出される。
 土蔵に入って何かを取ってくるおばあちゃんにも、くっついて歩いた。大きな鍵を壁から外して、錠前を開け、重い戸をゴロゴロと開ける。もう一つの戸も開ける。おぞうりを履き替える。取ってくるものは、新しい餌袋だったり、「お日待ち」のための食器だったりした。蔵の二階の床板には、ところどころ隙間があって、そこから階下で動き回るおばあちゃんを、見物するのが好きだった。いつも遊ぶ西出(にしで。屋敷の西側に位置する、小暗い庭)を、蔵の小さい窓から見下ろすのも嬉しかった。蔵の中は夏はひんやりし、冬は少し暖かい気がした。
 高校までずっと電車通学だった。駅から家までのたった5分の道を、暗くなってから一人で歩いてはいけないことになっていた。電車に乗る前に、家に電話する。呼び出し音を1回鳴らしたら切る。すると駅で待っているおばあちゃんに迎えられる。
 おばあちゃんは途切れめなく犬を飼っていたので、晴れならそのだいじなわんこさまを乳母車に乗せてくる。重い鞄を乳母車に乗せて、私は手ぶらで帰る。雨だと傘を持って来てくれる。おばあちゃんは、重い鞄を持ってくれるという。いや、こっちの方が若くて元気なはずなんだけども。でも学校というところは疲れるところで、実はくたくたのへろへろ。鞄を持ってもらうと、めちゃくちゃうれしいし、なんだかものすごく元気が出てくるのだった。
 同じ敷地内の3軒に住む4夫婦に、合計7人の子どもがいて、全員電車通学。うち女の子は5人。バラバラに呼んで、皆迎えてもらった。私の小学生時代は、まだあんまり物騒なことは起こらなかったから、一人で帰ってきていたが、中高生時代は、「暗くなったらおばあちゃん」だった。
 おじいちゃんは、自分の死後の経済的準備だけはきっちりとしていたので、未亡人になったおばあちゃんは、やっとお金に困らなくなった。遠くに住む孫や曾孫の顔を見るたびに、お小遣いをたくさんくれる。逆だよ、こっちがお小遣いを差し上げて当然の年だよーと言うと、私の楽しみを取り上げるなと言われた。
 そのお金は「つもり貯金」で作っているのだって。お菓子を買ったつもり。お花を買ったつもり。お出かけをしたつもりで、そのお金を貯金する。そんなことを聞いたら、あんまり阿呆なお金の使い方はできなくなる。おばあちゃんにもらったお金で、たいてい本を買った。
 時が経ち、私が本を出すと、おばあちゃんは「早くは読めないから」と徹夜して、一晩で読んでしまう。その後10回も20回も30回も繰り返し読んで、「こんないい本は読んだことがない。何回読んでもまた読みたい」とほめてくれるので、私は泣いてしまうのだった。

2015年4月26日日曜日

おじいちゃん~尊敬され続けた壮年無業者


 私が幼稚園に通った一年間は、おじいちゃんが送り迎えをしてくれた。駅まで5分、電車で10分、路面電車に乗り換えて15分、幼稚園まで歩いて5分程度。乗り継ぎを含めて1時間弱の道のりを、おじいちゃんは私の倍の回数、往復してくれた勘定になる。
 父は、大動物(だいどうぶつ。家畜)の獣医をしていた。顧客である養豚農家と酪農家を追って、田舎へ田舎へと引っ越した。保母だった母には幼稚園への強いこだわりがあり、両親と3人の妹は田舎暮らしのまま、長子の私は母の好きな幼稚園のある市内の、祖父母の家に預けられた。いわば「幼稚園留学」をしていたわけだ。
 幼稚園の一年保育、年長組に入ってみると、周りの子たちは年中組からの二年保育だったので、自分だけが物慣れず、ぎくしゃくしているのを、子どもながらに自覚した。きれいな先生はカリカリして小言が多く、男の子たちは怒るか威張るかで、それらをよけるのに、相当の体力を使った。
よけられないのは臭いだった。トイレも、容器に指をつっこむ方式のでんぷんのりも、あぶらねんども、毎日倒れる牛乳瓶の始末をした雑巾も、ひどく臭って、ただでさえ好きでない牛乳が、決定的に飲めなくなった。
 でもまあこんなものだろうと受け入れ、おじいちゃんの送迎も、当たり前のように受け取った。すらりと背が高く、夏には麻のスーツにパナマ帽、きりきりと巻いた傘をステッキ代わりにして、いつでもしゃんと背筋を伸ばしているおじいちゃんには、威厳があった。当時まだ十分に働けた年齢のはずだが、仕事はずっと前から放棄していて、いつも家にいる人だった。
 もともとは地元の師範学校を出て、小学校の教師をしていた。大変な博学で、母や叔母の名前には、殆ど誰も読めない漢字が使われている。祖父の膝の上で、私は古事記を聞いて過ごした。神様たちの名前が、お経と同じぐらい、ちんぷんかんぷんだった。物語の筋も、ほとんど理解できていなかったと思う。でも祖父の口の中で、おいしいお菓子でも食べるようにもごもごと繰り返される「なんとかかんとかのミコト」の世界が、どこかに「あるということらしい」と受け取った。
 おじいちゃんはかつて、地主でもあった。地代として収められるお米を入れておく土蔵があった。取り立てに汚い悪徳地主ではなくて、「ありがとうございました」と深々と頭を下げてお米を受け取っていたそうだ。また、かつて満州鉄道の株主であり、その配当金で生活できるほどでもあった。教師としての給与所得もあり、いわば一般家庭の三本立ての収入のある小金持ちで、年の離れた母の兄は、遠方の私立医専を出た医者だった。ラジオも、自転車も、村で最初に購入する程度の羽振りの良さはあった。
 ところが、農地解放のために、自分で耕していない田畑は取り上げられて、耕す人の所有になった。これはいわば、アパート経営をしていたのに、「自分で住んでいないところは、なしね」という国の一言により、無料で店子に下げ渡されて、家賃収入がいきなりゼロになったようなものである。加えて、満鉄の株がただの紙切れとなり、配当金も元金も消えた。その二つのショックがあまりにも大きくて、おじいちゃんは学校の先生まで辞めてしまったのである!
 仕方がないので、祖母が和裁と編み物で暮らしを立てた。いや、暮らしが立っていたのかどうか。持ち家があり、井戸があり、家の敷地が畑も作れるほど広く、耕作の教養があったおかげで、飢え死には免れたという程度の極貧だった。祖母の家計簿を覗いた子ども時代の母は、頼まれものの編み物を徹夜で仕上げて得たお金で、母の運動靴を買ったら、手元のお金がゼロになった様子を読み取って、何もねだらない子どもになった。
 父親なのに、なんという弱虫だろうと、今の私なら言いきれるが、それを思いついたのは、大人になってからだ。『若草物語』の作者、ルイザ・メイ・オルコットの父親を「甲斐性なし」と言い切る評伝を読んで初めて、もしかして私のおじいちゃんの正体もこれだったのかと気がついた。そして、遅すぎる気づきに、自分で驚いた。妻子に大変尊敬されていたルイザの父親は、理想を追うばかりで換金性のある仕事はせず、結局親のために独身を選んだ娘に養われ、経済的なふがいなさを隠そうともしなかったのに、大作家の娘から尊敬されたまま、一生を終えた。
 おじいちゃんも、ずっと尊敬されていた。気位が大変高かった。その気位を、家族が支えていた。私が大学生の時、祖父が亡くなり、そのときの嘆きようで、母は大変なファザコンだったと認識した。
 働かなくなったおじいちゃんは何をしていたかというと、狭くない敷地の手入れを、いつも、いつも、いつもしていた。綺麗に生えそろったスギゴケの間から、小さな草の芽をほじり出すコテの各種に始まり、庭仕事の道具を、さしかけ小屋の壁にずらりと揃えていた。大変な几帳面で、何でもきちんと整理整頓していた。庭にも畑にも、雑草など一本もなかった。私たちは野生児で、よく近所のあぜ道を散歩して、野の花を摘んだが、それを自宅敷地内に持ち込むことは禁じられていた。
 おじいちゃんはいつも地べたにかがみ込んで土を相手に仕事をし、おかげで敷地内はいつも生き生きしていた。要するに、ごく勤勉な自宅庭師として、実際には「病弱でもないのに家でぶらぶらしている男」として、農地解放以降の半生を終えた。あれもお上の一声による、土地お取り上げへの抵抗だったのだろうか。そうだとしても、肝心のお上には痛くも痒くもなく、抵抗と通じもせぬ抵抗によって、家族が困っただけである。
 気位は高いが、おじいちゃんの考え方は柔軟だった。「新しいものと古いものと、どっちがいいと思う?」と聞いたことがある。お年寄りだから、「古いものには、それまでの知恵の蓄積が云々」と言うのだろうなと、ある程度の予測をしていたら、違った。「古いものもいい。新しいものもいい。でも新しいものの方が少しだけよいと思う。新しいものをみんなが少しずつ信じたら、世の中が少しずつよい方に向かう。世の中にはいろんな困ったこともあるけれど、『進歩』によって、前よりちょっとずつよくなっていると思うことができる」という返事だった。
 高卒で保母資格、夜間専門学校で幼稚園教諭の資格を取って長く勤めた母が、祖父の土地に小さな自分の幼稚園をつくりたいと言ったときも、それは大変よいことだと、二つ返事で承諾した。   元々祖父自身が先生だったから、教育にかかる手間と手持ちのものの提供は惜しまず、私の幼稚園の送り迎えをしてくれたのも、その一環だったと思う。おかげで私は電車でどこかへ行くことに抵抗がなくなり、くじびきで入る岐阜大学教育学部付属小・中学校には、最初から電車を乗り継いで一人で通った。
 出産後再び働き始めた母に代わって授業参観に来てくれるのはいつもおじいちゃんだった。図工の授業の参観日におじいちゃんのつくった楽焼きの花入れを、長いことうちで使っていた記憶もある。
 「大の男が」幼児の送迎をするとか、PTAに参加するなど、当時は「沽券に関わる」とか何とか言って嫌われることが多かったと思うが、その点は大変な自由人で、祖父のプライドが傷つくようなことは、まったくなかった。
 私が小学校に入学した年から、酪農家の激減から、大動物獣医として立ちゆかなくなった父が、隣県の保健所で働き始めた。母は昼間幼稚園で働きながら、夜は専門学校に2年間通った。祖父の敷地内に家も建った。私には妹が3人いて、同じ敷地内に住む伯父夫婦に1人、叔母夫婦に2人いたいとこたち、総勢8人の大人と7人の子どもで、さながらリンドグレーンの『やかまし村のこどもたち』のように暮らした。
 毎学期末に通知票を持ち帰ると、まず親に見せ、それからおじいちゃんに見せにゆく。おじいちゃんは親よりもゆっくり、すみずみまでじっくり眺めて、必ずたくさんほめてくれる。そしてそのほめ言葉が、年賀状になって届く。
 それは画用紙をはがきサイズに切ったものに、切手から何から、祖父の万年筆で書かれたもので、7人の孫それぞれに違ったほめ言葉と励ましの言葉によって、一月一日ぴったりに、それぞれの郵便受けに届く。それは私たちにとって、先生からのコメントよりも格上の値打ちがあった。先生は時によって、批判を込めた励まし方をなさる。おじいちゃんは100%のほめ言葉と励ましを、七通りの言い方で、いつも私たちにくれるのだった。
 幼稚園児代、おじいちゃんの膝で覚えた味は、たけのこと、つくしと、くわいである。おじいちゃんのお皿から、一番おいしそうなところを、おじいちゃんの箸で食べさせてもらった。幼稚園にして親と離れた下宿時代も、そのおかげで寂しくなく過ごせたような気がする。