2015年4月26日日曜日

おじいちゃん~尊敬され続けた壮年無業者


 私が幼稚園に通った一年間は、おじいちゃんが送り迎えをしてくれた。駅まで5分、電車で10分、路面電車に乗り換えて15分、幼稚園まで歩いて5分程度。乗り継ぎを含めて1時間弱の道のりを、おじいちゃんは私の倍の回数、往復してくれた勘定になる。
 父は、大動物(だいどうぶつ。家畜)の獣医をしていた。顧客である養豚農家と酪農家を追って、田舎へ田舎へと引っ越した。保母だった母には幼稚園への強いこだわりがあり、両親と3人の妹は田舎暮らしのまま、長子の私は母の好きな幼稚園のある市内の、祖父母の家に預けられた。いわば「幼稚園留学」をしていたわけだ。
 幼稚園の一年保育、年長組に入ってみると、周りの子たちは年中組からの二年保育だったので、自分だけが物慣れず、ぎくしゃくしているのを、子どもながらに自覚した。きれいな先生はカリカリして小言が多く、男の子たちは怒るか威張るかで、それらをよけるのに、相当の体力を使った。
よけられないのは臭いだった。トイレも、容器に指をつっこむ方式のでんぷんのりも、あぶらねんども、毎日倒れる牛乳瓶の始末をした雑巾も、ひどく臭って、ただでさえ好きでない牛乳が、決定的に飲めなくなった。
 でもまあこんなものだろうと受け入れ、おじいちゃんの送迎も、当たり前のように受け取った。すらりと背が高く、夏には麻のスーツにパナマ帽、きりきりと巻いた傘をステッキ代わりにして、いつでもしゃんと背筋を伸ばしているおじいちゃんには、威厳があった。当時まだ十分に働けた年齢のはずだが、仕事はずっと前から放棄していて、いつも家にいる人だった。
 もともとは地元の師範学校を出て、小学校の教師をしていた。大変な博学で、母や叔母の名前には、殆ど誰も読めない漢字が使われている。祖父の膝の上で、私は古事記を聞いて過ごした。神様たちの名前が、お経と同じぐらい、ちんぷんかんぷんだった。物語の筋も、ほとんど理解できていなかったと思う。でも祖父の口の中で、おいしいお菓子でも食べるようにもごもごと繰り返される「なんとかかんとかのミコト」の世界が、どこかに「あるということらしい」と受け取った。
 おじいちゃんはかつて、地主でもあった。地代として収められるお米を入れておく土蔵があった。取り立てに汚い悪徳地主ではなくて、「ありがとうございました」と深々と頭を下げてお米を受け取っていたそうだ。また、かつて満州鉄道の株主であり、その配当金で生活できるほどでもあった。教師としての給与所得もあり、いわば一般家庭の三本立ての収入のある小金持ちで、年の離れた母の兄は、遠方の私立医専を出た医者だった。ラジオも、自転車も、村で最初に購入する程度の羽振りの良さはあった。
 ところが、農地解放のために、自分で耕していない田畑は取り上げられて、耕す人の所有になった。これはいわば、アパート経営をしていたのに、「自分で住んでいないところは、なしね」という国の一言により、無料で店子に下げ渡されて、家賃収入がいきなりゼロになったようなものである。加えて、満鉄の株がただの紙切れとなり、配当金も元金も消えた。その二つのショックがあまりにも大きくて、おじいちゃんは学校の先生まで辞めてしまったのである!
 仕方がないので、祖母が和裁と編み物で暮らしを立てた。いや、暮らしが立っていたのかどうか。持ち家があり、井戸があり、家の敷地が畑も作れるほど広く、耕作の教養があったおかげで、飢え死には免れたという程度の極貧だった。祖母の家計簿を覗いた子ども時代の母は、頼まれものの編み物を徹夜で仕上げて得たお金で、母の運動靴を買ったら、手元のお金がゼロになった様子を読み取って、何もねだらない子どもになった。
 父親なのに、なんという弱虫だろうと、今の私なら言いきれるが、それを思いついたのは、大人になってからだ。『若草物語』の作者、ルイザ・メイ・オルコットの父親を「甲斐性なし」と言い切る評伝を読んで初めて、もしかして私のおじいちゃんの正体もこれだったのかと気がついた。そして、遅すぎる気づきに、自分で驚いた。妻子に大変尊敬されていたルイザの父親は、理想を追うばかりで換金性のある仕事はせず、結局親のために独身を選んだ娘に養われ、経済的なふがいなさを隠そうともしなかったのに、大作家の娘から尊敬されたまま、一生を終えた。
 おじいちゃんも、ずっと尊敬されていた。気位が大変高かった。その気位を、家族が支えていた。私が大学生の時、祖父が亡くなり、そのときの嘆きようで、母は大変なファザコンだったと認識した。
 働かなくなったおじいちゃんは何をしていたかというと、狭くない敷地の手入れを、いつも、いつも、いつもしていた。綺麗に生えそろったスギゴケの間から、小さな草の芽をほじり出すコテの各種に始まり、庭仕事の道具を、さしかけ小屋の壁にずらりと揃えていた。大変な几帳面で、何でもきちんと整理整頓していた。庭にも畑にも、雑草など一本もなかった。私たちは野生児で、よく近所のあぜ道を散歩して、野の花を摘んだが、それを自宅敷地内に持ち込むことは禁じられていた。
 おじいちゃんはいつも地べたにかがみ込んで土を相手に仕事をし、おかげで敷地内はいつも生き生きしていた。要するに、ごく勤勉な自宅庭師として、実際には「病弱でもないのに家でぶらぶらしている男」として、農地解放以降の半生を終えた。あれもお上の一声による、土地お取り上げへの抵抗だったのだろうか。そうだとしても、肝心のお上には痛くも痒くもなく、抵抗と通じもせぬ抵抗によって、家族が困っただけである。
 気位は高いが、おじいちゃんの考え方は柔軟だった。「新しいものと古いものと、どっちがいいと思う?」と聞いたことがある。お年寄りだから、「古いものには、それまでの知恵の蓄積が云々」と言うのだろうなと、ある程度の予測をしていたら、違った。「古いものもいい。新しいものもいい。でも新しいものの方が少しだけよいと思う。新しいものをみんなが少しずつ信じたら、世の中が少しずつよい方に向かう。世の中にはいろんな困ったこともあるけれど、『進歩』によって、前よりちょっとずつよくなっていると思うことができる」という返事だった。
 高卒で保母資格、夜間専門学校で幼稚園教諭の資格を取って長く勤めた母が、祖父の土地に小さな自分の幼稚園をつくりたいと言ったときも、それは大変よいことだと、二つ返事で承諾した。   元々祖父自身が先生だったから、教育にかかる手間と手持ちのものの提供は惜しまず、私の幼稚園の送り迎えをしてくれたのも、その一環だったと思う。おかげで私は電車でどこかへ行くことに抵抗がなくなり、くじびきで入る岐阜大学教育学部付属小・中学校には、最初から電車を乗り継いで一人で通った。
 出産後再び働き始めた母に代わって授業参観に来てくれるのはいつもおじいちゃんだった。図工の授業の参観日におじいちゃんのつくった楽焼きの花入れを、長いことうちで使っていた記憶もある。
 「大の男が」幼児の送迎をするとか、PTAに参加するなど、当時は「沽券に関わる」とか何とか言って嫌われることが多かったと思うが、その点は大変な自由人で、祖父のプライドが傷つくようなことは、まったくなかった。
 私が小学校に入学した年から、酪農家の激減から、大動物獣医として立ちゆかなくなった父が、隣県の保健所で働き始めた。母は昼間幼稚園で働きながら、夜は専門学校に2年間通った。祖父の敷地内に家も建った。私には妹が3人いて、同じ敷地内に住む伯父夫婦に1人、叔母夫婦に2人いたいとこたち、総勢8人の大人と7人の子どもで、さながらリンドグレーンの『やかまし村のこどもたち』のように暮らした。
 毎学期末に通知票を持ち帰ると、まず親に見せ、それからおじいちゃんに見せにゆく。おじいちゃんは親よりもゆっくり、すみずみまでじっくり眺めて、必ずたくさんほめてくれる。そしてそのほめ言葉が、年賀状になって届く。
 それは画用紙をはがきサイズに切ったものに、切手から何から、祖父の万年筆で書かれたもので、7人の孫それぞれに違ったほめ言葉と励ましの言葉によって、一月一日ぴったりに、それぞれの郵便受けに届く。それは私たちにとって、先生からのコメントよりも格上の値打ちがあった。先生は時によって、批判を込めた励まし方をなさる。おじいちゃんは100%のほめ言葉と励ましを、七通りの言い方で、いつも私たちにくれるのだった。
 幼稚園児代、おじいちゃんの膝で覚えた味は、たけのこと、つくしと、くわいである。おじいちゃんのお皿から、一番おいしそうなところを、おじいちゃんの箸で食べさせてもらった。幼稚園にして親と離れた下宿時代も、そのおかげで寂しくなく過ごせたような気がする。